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フーリエ倶楽部 ~リサイクル日和~
三重県名張市にあるリサイクルショップ「フーリエ倶楽部」です!おもちゃ・ゲーム・古着・CD・DVD・コミック・釣具・楽器などなどの買取、販売をしています!新入荷、強化買取、スタッフのイチオシなど更新中!
あれから16年・・・
1995年1月17日。あの日の事は、今も鮮明に思い出されます。
阪神淡路大震災。
あれから早いものでもう16年経つんですね。20110117-00000116-yom-000-3-view.jpg
あの日の前日、というか2時間程前までは、私はすごく楽しい時間を過ごしてました。数時間後に起る事なんて夢にも思わず・・・多分関西の誰もがそうだったと思います。
当時の関西は、殆どの関西人が思ってました。関西には地震は起らないと。あの自信は何処から来てたのか、当時は本当にそう思ってたんですよ。実際、私の友人(大阪3人、京都2人、兵庫4人)は言ってましたね。「関西は地震がないから安心」みたいな事。私も大阪に住み始めて6年経ってたので、友人達の言葉を信じてました。
私が自分でブログでバラしたので、私が元・外国アーチストの追っかけだったことをご存知の方々も多いですが?まぁ色々あって追っかけから引退したんですよね。でも現役の追っかけ時代を知ってる方も当時はいて、特にアーチストを呼ぶプロモーターの方々とは、追っかけ時代は色々因縁がありまして・・・引退して翌年だったかな?に外国アーチストが訪れることで有名な某レストランが、大阪に出来てスタッフとして働くことに・・・当然アーチストが来たらプロモーターも同行。顔見知りの方々と久方ぶりに再会。「お前こんなとこまで」と人を見るなりうんざりな顔をされました。「追っかけやめたから。最近みないでしょ?」とか言って、真面目に働いてると納得してもらい。それからは、追っかけ時代の敵(アーチストにあわせてくれない)から友人まではいかないけど、来店すれば話す間柄?になりました。
ただ「ハニーが来たら話させてぇ」とは言ってましたが(冗談半分)「ハニーって・・ダメ。ライブで我慢しな」「まぁお前のハニーが店まで来たら考えたる」とニヤリ。こ、こいつ。そう、マイハニー(ダーリン♡)、東京店には行くのに、大阪店には来なかったんですよね。あっ、私のせいやないですよ。(笑)
今は店舗も移動して大きくなってVIPルームもありますが、当時の大阪店にはVIPルーム無かったからパニックになる可能性があるので、あえて大阪ではライブ会場に出前してました。(スターの特権?)「てかハニーで私の本命誰か知ってるの?」「あそこはお前も知ってると思うけど他バンドといろいろあったから、ファンでも悪意のある奴かどうか気をはるからな。お前は好意全面に出して追っかけてたからな。他のバンドの追っかけの時と気迫が違ったww」
顔見知りのプロモーターにそこまで分かられてると逆に怖い。あっマイハニーのバンドのうんぬんは今回関係ないので、また別のときにでも・・・
まぁ実際、アーチストと話なんか出来ないんですけどね。規則としてアーチストと個人的に話したら、即刻クビ!なんですから。今はどうか知りませんが。

話最初に戻し、あの日の前日16日の夜、お店にドリームシアターというアグレッシブなメタルバンドが来たんです。私は彼等の音楽は聴いてましたが、熱狂的なファンというわけでなく、プロモーターの方と話をするくらい。あっメンバーが席で食事中、プロモーターの方はバーカウンターに陣取ってるファンの動向みたりする為、私がいたキャッシャーカウンターのそばに立ってる事が多いので、自然に話すんですね。で、その日は閉店時間が早い日で、でもメンバーはもう少し飲みたいって事だったので、ミナミの某バーで飲む?って話になり、閉店作業をしてる傍らで確か、ドリームシアターのみなさんおとなしく待ってくれてまして。あっファンの方すいません。
でドリームシアター一行と私と数人のスタッフで、某バーへ。
ギターのジョンだったかな?そのへん記憶があいまい。に「what you're drink?」みたいなこと聞かれたのは覚えてる。メンバーは勝手に盛り上がってて、でもたまに気遣ってくれたりして、良い人達。でした。
私はほとんど、プロモーターの方と話をしてました「最近のファンのモラルが悪くなってる」とか。愚痴?みたいな感じの話から、懐かしい話とか。
で自分のマンションに戻って来たのが、1月17日の朝の3時頃。速攻寝ました。私17日は朝からの勤務だったので。ところが、ふと自分が揺れてる事に気付きました。「まだ酔ってるのかな?そんなに飲んでないけど」と。
でも何か違う。と目が覚めると・・・部屋全体が大揺れなのがわかりました。「地震!?」
長く感じた揺れが治まって、(もう死ぬかもと真剣に思えるくらいマンションが揺れてました)
テレビをつけました。後に修正されましたが、第一報の震度は8でした。
それまで他県の震度でもそんな数字見た事なかったので、めちゃくちゃあせりました。
兎に角、窓を開けベランダから外の様子を見て、それほど変化がなかったので安心しながらテレビを見ました、震源地が淡路方面だということや、神戸方面で被害が大きいと聞き、友人達の安否が心配でしたが、当時携帯も持ってなかった私は、ひたすら彼女達の無事を祈るしかありませんでした。
真っ暗な中、あちこちで火の手が上がる事を、ニュースで見ながら、信じられない気持ちでした。
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明るくなって判明していく兵庫の光景。一番信じられなかったのは、高速道路の半壊でした。
あんなにでかくて頑丈そうな道路の壊れた姿は衝撃的でした。
もういてもたってもいれず、いつもより2時間早く家を出て、キッチンを担当してる人は来てる筈と、お店に向かいました。お店にいたら、友人達の安否もわかるはずなので。
自分の睡眠時間が2時間もなかったとか、お風呂入ってないとか、そんな事どうでもよかったです。
キッチンの人達に声をかけると、「◯◯やったらさっき電話あったぞ。家族全員無事だそうや」と普段やったら、話もあまりしないスタッフが言ってくれ、少し安心。「キッチンのみんなは?」と聞くと「一人だけ連絡取れんけど、他は全員無事」との答え。店長もすでに来ていて、店の被害を聞くと、バーカウンターのお酒がほぼ全滅くらいだというくらいでした。仕事中も心配で仕方ないスタッフ達に店長が、ラジオを持って来てくれて、ラジオを聞いてました。店内にはいつもより静かな洋楽を流し、スタッフはラジオに釘付けって状態でした。
でもほとんど仕事になりませんでしたね。お客さんがまず来ない。難波の駅が閑散としてました。
時間をおうごとに増えて行く犠牲者の数。1000人単位で増えていくんです。もう本当に信じられない気持ちでした。ラジオを聞くのがあれほど辛いと思った事はありませんでした。
昼過ぎには殆どのスタッフの安否が確認されましたが、交通状態がマヒしていて出勤出来ない状態だということ。
それは、あの映像見たら分かる事なので店長も無事で良かったと喜んで今は家族といた方がいいですと言って
ましたね。友人の一人は丁度ミナミで遊んでいて、家に帰ってなかったらしく、いつもの時間に出勤。「ご家族は?」と聞く店長に「家は半壊したらしいですけど、家族は無事みたいです」と明るく答えてました。
印象に残ってるのは、電車も不通、道路も通れないあの状況の神戸に行くってお客さんが来た事。
その人の友人が「ここのレストランのハンバーガーとトルティーヤチップスとアボガドディップが好きやから、あいつに持って行ってやりたい」との事。でも道路も封鎖状態でどうやって行くのかと、店長が聞くと
「道路の状態は分かってる。いつ着くかも分からんけど、あいつとあいつの家族がハラ空かしてるかもと思うと何かしたい」と確か40歳くらいの人でした。本当ならテイクアウトはしてはいけないんだけど、その人の熱意に負けて当時の、店長がokしました。その人はリュックバックにバーガー達を入れ、自転車で神戸に向かいました。
あとで、その人が2日かかったけど、無事に着いたそうです。
半年くらいして友人家族とあったかいバーガーを食べに来てくれました。
でも無事な方ばかりではありませんでした。店長補佐の友人が亡くなってました。
店長補佐は行方不明になった友人を他の友人達とで探しましたが。見つけることができたのは・・・
ああいう時なんて言っていいか分からないですね。
何を言っても気休めにしかならないし。ボロボロ泣き出す彼に何も言えませんでした。
数日後、私も友人の家に行く為、神戸を訪れました。
電車が再開したからです。
あんなにキレイな神戸が・・・絶句。
あちこちの倒壊、半壊した家の入り口には家族無事。◯◯避難所にいる。との文字。胸が熱くなりました。
友人知人、無事を喜びながら、地震の恐怖を実感しました。

あれから16年。関西の災害意識は、強くなりました。
私も未だに地震を察知するのが早くなり、非常食とか万が一に備えいろいろ、準備をかかせません。
あの恐怖、失望感、忘れる事はできないでしょう。
当時一緒に働いてた人達とはチリチリになってしまいましたが、今でも結束は強いです。
そしてみんな頑張ってます。

あらためて、犠牲者の方々のご冥福を心からお祈りします。

私事でしか語れずのmokoでした。
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